沖縄県浦添・那覇・首里 具志セープピアノ教室 講師プロフィール

5歳ピアノを習い始めるきっかけ

 

父は気が短く泡盛好きの塗装業。

母は大らかでのんびりな専業主婦。

喋り始めが早く、3歳には綺麗に言葉を話す。

4人弟妹の長女で面倒見の良いしっかり者。

4歳の時、母が少し離れている合間に泣いている妹にミルクを作り飲ませた記憶がある。

 

幼稚園でもお母さん役

 

幼稚園ではまだ園に慣れず泣いている子の面倒を先生から託される。

みんなに絵本の読み聞かせをし、先生にビックリされ褒められる。

おゆうぎ会では劇のナレーターをやり、同じく横でおゆうぎをしている子に先生並みに指示を出すハリキリタイプ。

先生の言いたいことが理解でき、褒められて伸びる子だった。

長女だからと我慢させられることもく、好きな事をさせてもらい、自由気ままに育てられる。

 

クラシック好きの父

 

母よりも短気な父の方が大のクラシック好きで、大きなステレオからはいつもクラシックを流し、ビデオではカラヤン指揮のオーケストラを見ていた。

そのおかげで曲を覚え、自然とレストランなどで流れているクラシック音楽を口ずさむようになる。

カラヤンの指揮を覚え曲に合わせて振るなどして遊ぶ。

その影響から自分の意思でピアノを習い始める。

 

 

 

サボってばかりのピアノ

 

2年生の時、クラスで成績が一番だった。

ピアノを筆頭に、書道や琉球舞踊のお稽古ごとを始める。

ピアノだけ教室が遠かった為、サボり始める。

夏休みに入ると行かなくなり、先生から呼び出しの電話を受けようやく行く。

ただレッスンはサボってもピアノは好きだった為、家では夜遅くまで練習をし、弾いて楽しむ。

 

もっと早く始めていれば

 

初めて母がクラシックではなくポピュラー曲集の楽譜を買ってくれた時は知っている曲を弾けることが衝撃的で、楽しくて嬉しくて、時間があれば弾いていた。

お陰でまともにレッスンに行っていない割には家での練習が実り、高学年からソナチネに入る。

それもレベルに応じた練習曲順があると知らず、1番(中レベル)からちゃんと練習…メロディーに魅力され、夜遅くまで弾く。

レッスンでは先生から「もっと早く始めても良かったかな」と言われる。

学級レクでは琉球舞踊を踊って見せる。

 

生涯の賜物、吹奏楽部との出会い

 

高学年から金管バンドに入り、ラッパしか分からなかった理由でトランペットを始める。

初めて先輩との上下関係を学び、敬語を覚える。心地良い緊張感の中、楽しく練習に励む。学校行事で演奏したり、運動会でパレードをしたり、初めてマーチングの大会にも出場する。

人見知りな面があり、学年によってグループに馴染めたり、馴染めなかったりした。6年生は仲良しの子がいたお陰で、小学校生活の中で一番楽しく過ごす。

勉強は5科目より、体育、音楽、図工が好き。

6年間皆勤賞(約300人中2人)

 

那覇市立金城中学校

 

勧誘が凄まじく、マーチングの強豪校、吹奏楽部に入部。

ピアノどころではなく、頭から離れる。

合唱コンクールや卒業式などは伴奏で参加。

 

連続全国制覇

 

マーチングの強豪校で3年連続全国制覇。

両親からトランペットを購入してもらう。

毎朝7時から夜9時まで365日、台風時でも休み無しのハードな練習。

実績の裏には他校と比べようのない汗と練習量をこなす。

顧問の先生や上下関係もしたたか厳しく鍛えられる。

胃腸炎になり病院へは行くも、過去に部活を休んだことは一度もない。

ピアノを習っていたお陰で耳や音感が良く譜読みが早い。

苦手なテクニックもあったが音色が評価され、何度もソロを任される。

おかげで精神力の強化、忍耐、根性、責任感が確立する。

共に喜怒哀楽を分かち合った仲間の絆は後にも先にも一番強い。

義務教育9年間皆勤賞。

 

実績

 

1999年3年時、吹奏楽連盟マーチングフェスティバル 全国制覇 中学の部優秀賞(一団体)を始め中学の部全ての賞を獲得。

マーチング連盟全国大会金賞

その他沖縄サミット国旗掲揚式で演奏。

2000年那覇市民栄誉賞

過去に沖縄県国体パレード、愛のコンサートXX参加    (全国代表) 柏朋会主催[寛仁親王]

 

マーチングの強い高校へ

 

高校進学時、顧問の先生が吹奏楽部のある高校へと部活推薦を推してくれる。

音楽以外もやりたいと母と喧嘩になりながら拒む。

最終決断、進学校は学力の問題もあり諦め、マーチングを続けるため推薦入学をする。

先生の安堵と嬉し涙は今でも覚えている。

 

小禄高校 芸術教養コース (音楽)

 

部活では部長を務める。

コースは普通科ではなく専門(音楽)の授業が多い。

強豪校からきた為、話しが回っており吹奏楽部へ案内され即入部。

これまた強豪校ではあったが顧問や指導者の入れ替わりで人数は激減。

中学校時、鬼のような部活動を過ごした経験から比べると何もかもが緩く物足りなさを感じる。

サボっても許される部活だった中、やはり一つのことを貫いてきた経験からサボってる人が許せず3年間みっちり励む。

先輩後輩、同級生からはムードメーカー的な存在とキャラが好かれる。

部活とピアノが両立出来た為再開。

大学進学は音楽大学に行くか、トランペットで留学をするか、考える。

 

実績

 

部活動の賞の他、個人での賞(伴奏編)

部内で一番恐れられていた先輩のピッコロトランペットの伴奏をし、沖縄県高校音楽コンテスト 金賞、県代表。九州大会銀賞。

全琉音楽祭において小桜平和賞を受賞。(全団体から一団体)

 

(トランペット編)

 

沖縄県高校音楽コンテスト銀賞。

 

くらしき作陽大学 音楽療法専修に入学。

 

留学は漠然としすぎて進まず、初めて耳にした「音楽療法」に興味を抱く。

推薦入試がそれぞれ英語、小論文、口述試験、実技演奏の計3回。

付き添いで来た母や妹は旅行感覚。

案の定ホテルではトイレにこもり試験勉強をするはめに。

結果1、2回とも落ち、3回目にしようやく合格。

晴れて入学後、初めての県外でホームシックになり、5月の連休に帰省する。

徐々に慣れ始め、持ち前のキャラでまたもやムードメーカーになり楽しく過ごす。



季節感に心踊る

 

日本における音楽療法はまだ国家資格になっておらず他の学科に比べ実習や課題が山のように多い。

日々追われ、描いていた花の大学生の姿は無かった。

初めて他県の友達が出来、沖縄では味わえない季節感が新鮮で中でも雪にテンションマックス。

 

仕送りが途絶える

 

一年経とうとしていた中、実家で金銭的な余裕がないと知り、仕送りが減る。

バイトを始め、アパート代とテキスト代をどうにかつくる。

気持ちが弱くなった頃、多額の学費がかかることに罪悪感を感じ、もう辞めようかなと思うようになる。同時に学校へ行かず家にこもり始める。

そうこうするうちに、いよいよ実家で大問題が発生。

仕送りが途絶え、学費が払えないとの連絡を受ける。

 

ピンチ

 

大学を辞める。

これで家族の負担が減るなら…そんな思いだった。

大学に通っている間は学生でいられたけど、辞めると外に出されたように孤独を感じ、先が見えなかった。

守ってくれるものがない。

沖縄に帰るとさらに弟から「大学に行った意味がない」と言われ、かなり屈辱的だった。

何も言い返すことが出来ず、悔しさと虚しさだけが残った。

 

一つの光

 

少し経ってから、中学の時の顧問の先生が気にかけて下さり、ちょうどピアノ講師が抜けるということで、タイミング良くそのポジションをいただけることになる。当時生徒数は15名ぐらい。

ピアノを教えることは楽しかった。

ベテランの先生に指導をしてもらいながら指導スキルを学ぶ。

相変わらず両親や家庭の問題は落ち着かず、あまり帰りたくなかった。

時折涙が流れ、心は弱っていた。

高校へ上がる妹の制服をどうにかしないと!現実へ引き戻される。

唯一、先生が指導をされている一般の楽団で演奏したり、ピアノに向き合っている時間だけが周りに振り回されることなく自分らしくいられる時間だった。

 

ピアノをもっと学びたい

 

幸い、務めさせていただいた2年間は学生の時よりもピアノを弾く時間が沢山あった。

徐々にもっと極めたいと思うようになる。

相変わらず家庭は落ち着かないが、自分自身が前を向くようになっていた。

結果、次へのステップへ動く。

先生にはお世話になった恩があり非常に言い出しにくかったが、勇気を持って次の学びへ向かいたい思いを伝えた。良い言葉は返ってこなかったけど、後任の先生も決まり、教室を後にする。

 

本格的にピアノの世界へ

 

2007年(23歳) たまたまインターネットで見つけた教室へ行き、その日で入会を決める。

偶然にも中学生の時外部指導で来られていたホルンの先生であった。

教室には自己啓発本が沢山置かれてあった。

元々本は全然読まなかった為、そこで初めてロバートキヨサキや斎藤一人さんなどを知る。

特に斎藤一人さんのポジティブな言葉選びを聞いていると私自身も元気になり、心の充電ができ明るい気持ちにさせてくれた。

ピアノへも精を出し始め、本にも勇気付けられ、持ち前のポジティブ精神が出始める。アルバイトをしながら練習に励む。

 

両親の離婚から得たもの

 

心機一転、日もたたないある日、両親が離婚。

これ以上翻弄されたくなく、弟妹も義務教育を終えていたため、アパートを借りて親とは別になり住む。良

くも悪くも早くから独立した事で、それぞれが自分の意思に責任を持ち行動をとるようになる。

「私は私の人生がある!」と、一分一秒でも長くこれまで以上に真剣にピアノと向き合う。

 

2人の先生との出会い

 

2008年(24歳) ホルンの先生が私の意欲を理解して下さり、更にスキルアップを図るため、親友でもあり国内問わずピアニストとして活躍されている横浜在住の先生を紹介していただく。

それまで弾きたい曲を選曲していたのからバロック、古典など最低限やっておくべき曲を課題に練習を始める。

横浜在住の為、初めはスカイプでレッスン。

その後、半年に一回レッスンを受けに行ったり、沖縄に来ていただいてレッスンを受けた。とても細かい練習から総合的な演奏力まで幅広く、毎回滞在中では足りないぐらいの内容を学ぶ。

 

睡眠を削って・・・

 

親の援助がない分経済的に余裕はなかった。

ただ、自分が出来ることは睡眠を削ってもやる気持ちで励んだ。

同時に音楽活動を行う。小学校やイベントでの演奏と共に、初めて料金が発生するコンサートで伴奏を担当。

レストランで定期的に行う。母も毎回聴きに来てくれた。

一番卒業をさせてあげられなかったと悔やんでいたのも母だと、後に知る。

本番を経験した後からは、日々更に臨場感を持った練習に励む。

 

大巨匠との出会い

 

2009年(25歳) ハンガリーからヨーロッパを代表するピアニスト、ジュラ・キシュ先生が東京に来るけどレッスンを受けてみるか?と聞かれる。

先生のリスト音楽院時代の先生である。

ピアノ科を出ていない私は音大生が憧れるリスト音楽院も知らなかった。

ハンガリーや留学の話し、キシュ先生との話をレッスンで沢山聞く。

そんな凄い先生に会えるならと、事の凄さを理解出来ていないままチャンスを有り難く受け取り課題の曲をもらう。

ブラームス intermezzo op.117

 

この曲は!!

 

実際県外へレッスンを受けに行く。

その日は先生方の演奏会の日。

キシュ先生がリハーサルをされていた為静かに客席へ座る。

少し間をあけ、プログラムにはないはずの私のレッスン曲の冒頭を弾き始める。

初対面だから分からないはず。

そもそも客席の照明は暗く見えにくい。

たまたまなのか。

いや、気づいたのだと、洞察力の凄さに驚く。

本番は譜めくりを任せられる。これまで友達のしかやったことがない。

事の凄さにまだ気づいていない。

滞在中は横浜の先生と共にキシュ先生をお迎えに行った。

 

次元が違いすぎる

 

いよいよレッスン日。

先生は通訳に回り、待っている間他の方の演奏を聴講出来た。

皆プロの方でハイレベル。

演奏会に来ているようで私は一人放心状態であった。

自分の番、案の定冒頭だけで50分のレッスンが終わる。

何も出来ないままただ愕然とし沖縄へ戻る。

一体何をしに行ったのだろう。

期待感とは裏腹に絶望感を味わう。

練習を始めるも次元が違いすぎて何から手をつけたら良いのか分からない。

気持ちだけが焦っていた。

弱音から、なんであのようなハイレベルの中に送り込んだのか、場違いだったと先生に吐く。

説明するより実際見て音を聴いた方が速い。と返される。

それから再び練習に明け暮れる。

 

横浜までレッスンへ

 

横浜までレッスンへ通い、一日トータル8時間のレッスンや、沖縄からスカイプでレッスンをしてもらう。毎回倍になった課題をもらう。

 

コンクールで初めての賞

研鑽を積みながら20代半ばにし計3回コンクールに挑む。

2011年3月、2度目の挑戦にし初めてジュラ・キシュ国際ピアノコンクールで賞をいただく。

副賞として実際にハンガリーで行われるサマーセミナーに参加出来る特権もいただく。

当時沖縄の先生は闘病中だった為空港から病室へ直行し頂いた賞の報告をしに行く。

声は出なくなっていたが、納得しきっていた表情だった。ハンガリーへは行きたいが旅費が数十万とかかる。

到底自分だけでは出せない。

 

母の入院、先生の急逝

 

(27歳) 同じ時期に母も脳卒中で入院してしまう。

母の意思で入院の事は父には知らせなかった。

不安だったけど良くなることを信じ弟妹と交換しながら面会ギリギリまで病室へいた。

少しずつ安定を取り戻し無事退院する。

ハンガリーの事を幾度となく話す。

表情は固かったが母も思うところがあったのか、良い返事がもらえた。

これでハンガリーへ行ける!

期待感と同時に緊張感が高まった。

闘病中の先生にも報告をする。

うつろな意識の中「お金は大丈夫か」と声にならない声で言ったのが最後であった。

ハンガリー行きを前に同6月急逝する。

 

迷いはない

 

これまで幾度となく背中を押していただきハンガリーでの留学記を沢山話していただいた先生の急逝。

せめて帰って来てから報告もしたかった。

あと2ヶ月後は出発。

母から今はピアノ弾かない方が良い。

と言われていたが悲しみに押しつぶされるのが怖く練習は辞めなかった。

どこか心に悲しみをひっかけたままハンガリーへの出発となった。

現地では自分の演奏に余裕がなくまたもやひたすら練習。

演奏もどうにか終え、華やかに楽しむことは出来なかったけど、学びは大きかった。

行かなければ分からなかったこと、想うものを沢山感じ帰省。

 

レッスンスタイル

 

2013年(29歳) 独立開業を果たす。

これまでと同様に研鑽を積みながら演奏活動を行う。

気づけば楽しい時も苦しい時も音楽があり、向き合う事で救われてきた。

本格的に始めたこの10年間は無我夢中で必死だった。

現在のレッスン生は子供が多い。

全員ピアノが「好き」で通っている。

好きであれば自発的に練習をする。練習=自分自身と向き合う。

課題を見つけ、レッスンまでの一週間で自分で解決方法を考える。

とても大事だと思う。

だから弾けるようになると嬉しくてもっと楽しくなる。

私はこの気持ちを育てていけるようサポートし努める。

子供達のこれから先の歩みの中、何が立ち向かおうと信じるのは自分自身。

自分を信じる事が出来れば乗り切れないことはないだろう。

ピアノを弾く喜び、達成が一つずつ子供達の自信となり力となるよう、今日もレッスンへ励む。

 

生徒実績

 

開邦高校音楽専攻合格者

2012〜現在 全沖縄ピアノ検定試験において毎年優秀賞多数。選抜された演奏会に出演。